chacha子@読書

書評への愛、あるいは未知の知覚について

読書感想文 大江健三郎『大江健三郎自選短編』

 岩波文庫のこの作品はとても分厚い。鈍器本一歩手前くらいだ。私は鈍器本の類いが好きなので、いいなと思う。
 この作品集の中で私が衝撃を受けたのが「飼育」だった。この作品のどこにそんなに打撃を受けたのかはっきり言えないのがもどかしい。無理やり言語化するなら、黒人捕虜との生なましい交流の軌跡が衝撃的だったのだ。初めは好奇心で近づいていく、そして相手も人間と分かり、温かな関係性が村の人々と黒人捕虜の間で結ばれていく。しかし、そんな『夏の庭』のようなハートフルストーリーで、この物語は終わらないのだ。県に引き渡されることを感じ取った黒人捕虜は、主人公を人質にして小屋に立てこもる。命がかかったとたん、敵味方に分裂してしまった黒人捕虜と村の人々。戦争というものが、関係を変質させてしまったというやりきれなさ。そして、黒人捕虜は死に、さらに物語の最後でもう一人あっけなく死ぬ。その死の前触れのなさ。描写はねちっこいわけではないのに、何故かありありと、さらに生なましく目の前に情景が浮かび、ぬらぬらとした人々の肌の感覚までもが感じられてくる。一次刺激がそのまま転写されたかのような文体。なのに、抽象性も担保されている。私はこの作品を読んだあと、自室でしばらく倒れていた。それくらい、この作品が心に及ぼした影響の密度は濃かった。
 この後の作品である「人間の羊」。この作品は、読後感は物寂しいものだった。理不尽を目にしただけの人間の熱情と、その理不尽を直接被った人間の感情の落差が悲しい。理不尽を被らなかった人は、被った者の屈辱が分からない。立場の違った二人の意識の断絶、共感の不完全さ。
 大江健三郎のことは、勝手に「難しい小説を書く人」として遠慮していた向きはあったが、読んでみると、普遍的な感情であったり、暗めの客観視が透徹されていたりと、はじめに思っていた感覚と違うものをいくつも受け取った。その印象としては、世界文学の深みはこういうものなのかという一種の喜びを伴った感情だった。やはり先入観というものは当てにならないのだなと思う。読んで得た実感が全てだ。