chacha子@読書

書評への愛、あるいは未知の知覚について

映画『仮面の男』ネタバレ感想。

以下ネタバレ注意。レオ様かっこよかった……!誰に忠義を尽くしたいか。やはり、信頼や思いやりのある君主に尽くすのが騎士冥利に尽きるというものなのだろう。見初められた女性と、その婚約者が不憫だった。
「他言無用」で去った騎士たち、中で何が起こったかたぶん知ってるよね。弟くんに確認してたし。う〜ん、闇から闇へ。正義の前にある程度の作為は必要な過程。暴君だったので仕方なし。ハッピーエンドでよかった。ダルタニアンが仮面の男というのは素晴らしい解釈。

読書感想文 宮本輝『青が散る』

 なんというか、辛い読書体験だった。メンタルが高校生なので、大学生のキラキラした感じとか、闇とかが「あ〜、あの頃のみんなはこんなのを味わっていたのねなるほど〜」という感じがした。私は文章力はそれなりにあるかもしれないが、感情の面で箱入りなので、まだ味わったことがない苦労を疑似体験する格好となって満足だった。私の人生にも、これから叶わぬ恋とか、もどかしい感じとかを味わうことになるのだろうか。
 青春は自由で潔癖でなくてはならない、という趣旨の言葉が作中にあったが、これは胸に響いた。潔癖であるからこそ、自由の中でその潔癖さを表現することができる。燎平の人生の中に、辰巳先生がいてよかったなと思った。きっと、彼の人生の節目に、心の中に何度も登場して、彼を支えてくれるだろう。
 しかし、なぜこんなにも読後感が辛いのか。深堀りしていこうと思う。まず、安斎の死が堪えた。病気というものの怖さが迫ってきた。それに、夏子の浮気。自分の価値を下げる行為をしてしまったがゆえに、たぶん安斎の死にも繋がっているような気がする。好きな女の子が浮気してたら精神に触りますよそりゃ……。そして、祐子の秘められた想いと、燎平の行いな。自分が祐子を汚したという強烈な自覚が辛かった。あーあ……って感じで。全体的に、想いが実らなかったり潰えたりして、それが辛かったんよな。それが現実か。でも現実逃避のために小説を読んでいる身としては、けっこうそれが突きつけられる感じできつかった。人生は怖い、そのとおりだ。なんの拍子で思いもよらない方向に舵を切ってしまうか分からない。燎平も夏子も、したいと思って浮気をしたわけではなさそう。なんかそういう流れに乗ってしまったのだ。怖いね。こういうことあるから人生。浮気はしたことないけど、友達がしたことがあって、その時は許せなかったんだけど(私はその友達を神格化しているところがあった)、なんか逃れられない場の流れみたいなものがあったのかもしれないな……とぼんやり思った。いやでも浮気はダメでっせ。清く正しく生きるのが一番楽な道やと思います。難しいかもしれないけどね。
 とにかく、安斎には生きていてほしかったし、夏子には浮気しないでほしかったし、祐子はもっと早く燎平に想いを伝えてほしかった。それぞれの人生に光と闇があって、私はそれが辛かったんだ。私はどこかに光だけの素晴らしい人がいるはずだと思っていて、そういう人を探しているんだけど、そんな人はやっぱりいないのかな……と思った。それに、光だけだと優しさがないかも……いや、優しくて光だけの人求む。無謀かもしれないけど。いや、自分がそういう人になれたらいいのかな? などと思った。

読書感想文 大江健三郎『大江健三郎自選短編』

 岩波文庫のこの作品はとても分厚い。鈍器本一歩手前くらいだ。私は鈍器本の類いが好きなので、いいなと思う。
 この作品集の中で私が衝撃を受けたのが「飼育」だった。この作品のどこにそんなに打撃を受けたのかはっきり言えないのがもどかしい。無理やり言語化するなら、黒人捕虜との生なましい交流の軌跡が衝撃的だったのだ。初めは好奇心で近づいていく、そして相手も人間と分かり、温かな関係性が村の人々と黒人捕虜の間で結ばれていく。しかし、そんな『夏の庭』のようなハートフルストーリーで、この物語は終わらないのだ。県に引き渡されることを感じ取った黒人捕虜は、主人公を人質にして小屋に立てこもる。命がかかったとたん、敵味方に分裂してしまった黒人捕虜と村の人々。戦争というものが、関係を変質させてしまったというやりきれなさ。そして、黒人捕虜は死に、さらに物語の最後でもう一人あっけなく死ぬ。その死の前触れのなさ。描写はねちっこいわけではないのに、何故かありありと、さらに生なましく目の前に情景が浮かび、ぬらぬらとした人々の肌の感覚までもが感じられてくる。一次刺激がそのまま転写されたかのような文体。なのに、抽象性も担保されている。私はこの作品を読んだあと、自室でしばらく倒れていた。それくらい、この作品が心に及ぼした影響の密度は濃かった。
 この後の作品である「人間の羊」。この作品は、読後感は物寂しいものだった。理不尽を目にしただけの人間の熱情と、その理不尽を直接被った人間の感情の落差が悲しい。理不尽を被らなかった人は、被った者の屈辱が分からない。立場の違った二人の意識の断絶、共感の不完全さ。
 大江健三郎のことは、勝手に「難しい小説を書く人」として遠慮していた向きはあったが、読んでみると、普遍的な感情であったり、暗めの客観視が透徹されていたりと、はじめに思っていた感覚と違うものをいくつも受け取った。その印象としては、世界文学の深みはこういうものなのかという一種の喜びを伴った感情だった。やはり先入観というものは当てにならないのだなと思う。読んで得た実感が全てだ。

読書感想文 穂村弘『はじめての短歌』

 穂村弘はアンチ社会的、である。こう書いてしまうと、何かただならぬ反社会的アナキストのように感じられてしまうが、そうではなくて、彼は「生きのびる」ことに偏ってしまうことの弊害を説いているのである。
 「生きのびる」ことと「生きる」ことは、この著書の中ではっきり別物だと記されている。食べたり、寝たり、社会的なふるまいをすることだったりが「生きのびる」こと。そうではなくて、それと隣り合うようにしてただ生の煌めきや鮮やかさ、固有性、唯一無二さが現れている状態が「生きる」こととして明示されている。生きることは簿記とか社長とか、権力とかみんなが思ういいこと、とは無縁だ。むしろ、ヘンだったり意味がないように思えたり、無駄だったりすることが「生きる」ことに直結していたりする。扁桃体大脳新皮質の違い、とでも言えばいいのだろうか。命を永らえさせることと、命そのものの輝きを表現することは、同じことではない。短歌では、この「生きる」ことをいかに描くかということが重要視される。
 穂村弘は、「生きのびる」ことより「生きる」ことを愛する人だということがこの本を読んでいてひしひしと感じる。今までなんとなく言語化できずにもやもやしていたこの生の実感に、形を与えてくれる。私達は「生きのびる」ことだけをしたいわけじゃない。就職とか結婚とか、分かるんだけど、でも人生ってそれだけじゃないよな。もっと、名付けにくい煌めきがあるはずなんだ。そこを透明化したくはない。そういう「揺らぎ」が、穂村弘の魔法の手によってはっきりと「生きる」と分別される、この感動は並大抵のものではない。
 この本は、首尾一貫して「生きる」ことについて書かれている。「生きのびる」ことに追い詰められた人は、この本を読んで膝を打つだろう。そして、短歌を始めるかもしれない。確かな救いがここにある。そして、社会的には無駄にしか見えないものを重んじる価値観が、ちゃんとこうやって本の形をとれることに、今の社会の懐の深さを感じてほっとする。大丈夫、まだこういう価値観は排斥されてない。居場所を与えられている。
 どちらかといえば「生きのびる」ことに不器用な、それでもなんとかやっていくしかない私のような人種は、この本を心のお守りにして、今日も社会を渡っていく。これだけが全てじゃないということを忘れないようにしながら。常に世界の手触りを感じながら、短歌を読む。

読書感想文 穂村弘『短歌のガチャポン』

 作者の穂村弘は、稀代の短歌解説者だと思う。歌人という肩書の次に掲げてほしい名称だ。短歌の煌めきを一つ残らず掬い上げることにかけて、彼の右に出る人はいないだろう。
 『短歌のガチャポン』には、古今東西から集められた100首の短歌が収められている。その全てに穂村弘の解説つきだ。斎藤茂吉から平岡直子まで、有名な歌人たちからそうでない人たちの珠玉の短歌が並ぶ。
 「僕らには未だ見えざる五つ目の季節が窓の向こうに揺れる」。山田航の作である。穂村弘はこの季節を「未来」だと受け取った。確かに、理屈を超えてこれは春夏秋冬以外の何かなのだ。どの季節にもまだ浸されていない、まっさらな未来として第五の季節を感受した穂村弘の慧眼に驚く。
 「思ひがけぬやさしきことを吾に言ひし彼の人は死ぬ遠からず死ぬ」。これは安立スハルの作であるが、これを鮮やかに「死亡フラグ」と見切った著者の、聖俗を自由に行き来する足取りの軽さに小気味よい気持ちになる。
 「野口あや子。あだ名「極道」ハンカチを口に咥えて手を洗いたり」。野口あや子のこの作を、筆者は他の書籍でも何度も取り上げている。この短歌の魅力を、穂村弘は説明しやすくない、とカテゴライズしている。短歌にはそういう、「魅力的にも関わらず、その理由が説明しがたい」作品が存在する。
 「双子でも片方は泣く夜もあるラッキーアイテムハンカチだった」。作者はこんこん。穂村弘は即座に「「片方」が泣いた時、もう「片方」がハンカチを出して涙を拭いてあげる。そんな美しい夜があるのかもしれない」と幻視する。その想像自体が例えようもなく美しい。
 「鯨のなかは熱くて溶けてしまいそうと輪廻途中の少女は言えり」。渡辺松男の作であるが、彼の作品の特徴を、穂村弘は「巨大な手が生と死の全てを掻き混ぜるような自由さがある」と表現する。それはすなわち神の手であろう。穂村弘のこの表現こそが自由で開放的な響きを持っている。
 その他にも魅力的な短歌が多数紹介され、穂村弘の独特の視点からその全てが解説されている。もちろん、穂村弘の評が全てではない。読者それぞれが、それぞれの感想を抱いていいのだ。正解や不正解という次元を超越して、自由な短歌の世界に泳ぐ。それが許されていることに感謝をしつつ、私達はまた短歌を読むのだろう。たまに詠んでみたりもしつつ。穂村弘という大きな神様の腕にぶら下がって、目の前の短歌は新たな煌めきを放つ。

読書感想文『チェンソーマン バディストーリーズ』

 バディの関係を中心に編まれた4篇の短編は、どれもチェンソーマン特有の低温度の淡々とした、しかし美しい物語だ。姫野先輩の願い、岸辺の一途さ、アキの優しさ。パワーの無邪気さにデンジの想い。いつ殺されるか分からない、明日の命もあるかどうかというシビアな公安の仕事に就く面々は、それぞれの思いを胸に秘めて悪魔と対峙したり、日常を送ったりしている。普通の神経だと正気ではいられないだろう。だから元々チューニングの狂った人間が生き残りやすいシステムになっているのかもしれない。でも、そんな人間にも情はある。
 最終話でデンジが見た夢に登場したアキとパワーは、何を伝えたかったのだろう。最後に挨拶をしにきてくれたのかもしれない。デンジに渡した言葉は、とても簡素で本質的な、愛情に満ちた別れの挨拶だった。戦って戦って、命尽きた後には、デンジは二人に会えるのだろうか。会えるといい。私はそう望む。望むだけなら自由だから。
 一話目もたくさん人が死ぬけれど、パワーのパワーに押されて、どこかあっけらかんとしていて楽しい。二話はクァンシと岸辺の掛け合いが貴重だ。三角関係になるのもいいなと思う。三話は姫野先輩の悲痛な思いが伝わってくる。そして二人の聡明さも。四話は、江ノ島という島を、私は知らなかった。調べてみると、神奈川県藤沢市にある島らしい。デンジ達が訪れた島の情景は、ありえたはずの未来だった。そして、それは実現されえなかった。とても悲しいけれど、幻視的な美しさ、虚ろさを感じる短編だ。
 チェンソーマンの良さは、人の死がとても低温度に描かれるところにあると思う。淡々と、しかし確実に人が死んでいく。登場人物はオーバーに感情を表現することはないが、しかしダメージを受けている。作者の筆はまるで、神のようなところから動かしている気がする。でも突き放しているわけではない。起こったことをありのまま描いているようなリアルさ。余計な感情表現の抑制。それが逆説的に人の死の悲しさを浮かび上がらせている。まともでいては生きていけない。そんな世界あってたまるか。でも、今私達の生きるこの世界はどうだろう? まともといえるだろうか? 狂った世の中を、まともなまま渡っていくことができるのだろうか? 答えは不明瞭で、正解の生き方は各自で掴み取っていかねばならない。絶望しても、それでも生きていかないといけない、その否応なしの苦難を感じている人は、きっとチェンソーマンを好きになるだろう。それだけは分かる。

ジョーゼフ・キャンベル『神話の力』読書感想文

最高の読書体験だった。神は自己の内側に存在する。有限の生と無限の生を見出すこと。ハートで生きること。至福を追求することで道を行くこと。あらゆる至言が胸に残っている。この世はなんという神秘の中にあることか!