chacha子@読書

書評への愛、あるいは未知の知覚について

読書感想文 穂村弘『はじめての短歌』

 穂村弘はアンチ社会的、である。こう書いてしまうと、何かただならぬ反社会的アナキストのように感じられてしまうが、そうではなくて、彼は「生きのびる」ことに偏ってしまうことの弊害を説いているのである。
 「生きのびる」ことと「生きる」ことは、この著書の中ではっきり別物だと記されている。食べたり、寝たり、社会的なふるまいをすることだったりが「生きのびる」こと。そうではなくて、それと隣り合うようにしてただ生の煌めきや鮮やかさ、固有性、唯一無二さが現れている状態が「生きる」こととして明示されている。生きることは簿記とか社長とか、権力とかみんなが思ういいこと、とは無縁だ。むしろ、ヘンだったり意味がないように思えたり、無駄だったりすることが「生きる」ことに直結していたりする。扁桃体大脳新皮質の違い、とでも言えばいいのだろうか。命を永らえさせることと、命そのものの輝きを表現することは、同じことではない。短歌では、この「生きる」ことをいかに描くかということが重要視される。
 穂村弘は、「生きのびる」ことより「生きる」ことを愛する人だということがこの本を読んでいてひしひしと感じる。今までなんとなく言語化できずにもやもやしていたこの生の実感に、形を与えてくれる。私達は「生きのびる」ことだけをしたいわけじゃない。就職とか結婚とか、分かるんだけど、でも人生ってそれだけじゃないよな。もっと、名付けにくい煌めきがあるはずなんだ。そこを透明化したくはない。そういう「揺らぎ」が、穂村弘の魔法の手によってはっきりと「生きる」と分別される、この感動は並大抵のものではない。
 この本は、首尾一貫して「生きる」ことについて書かれている。「生きのびる」ことに追い詰められた人は、この本を読んで膝を打つだろう。そして、短歌を始めるかもしれない。確かな救いがここにある。そして、社会的には無駄にしか見えないものを重んじる価値観が、ちゃんとこうやって本の形をとれることに、今の社会の懐の深さを感じてほっとする。大丈夫、まだこういう価値観は排斥されてない。居場所を与えられている。
 どちらかといえば「生きのびる」ことに不器用な、それでもなんとかやっていくしかない私のような人種は、この本を心のお守りにして、今日も社会を渡っていく。これだけが全てじゃないということを忘れないようにしながら。常に世界の手触りを感じながら、短歌を読む。